暗い夜の世界では不自由で、方向を誤り易く、その生活行動は不便不都合です。いろいろの間違いの起る今の世界は、闇夜のようなもので、闇夜には灯火をたよりに道を歩み、作業を行ないます。それでも道は遠く、足は疲れます。視界が狭くて能率が上がりません。松明や、堤灯や電灯位の姑息な措置では、仲々正しい明るい、住みよい世界には変りません。
私共では、根本的に行き方を変えて、明朗な、暖かい昼の社会に転換する設計の下に、活動をしているのです。消極的でなく積極的に、陰的でなく陽的に、静止沈滞でなくて自由活動的に、諦め的に物事を観ないで、夢を描き向上進歩を策します。狭い間道を細々と行かずに、大道を力強く活発に前進する社会設計です。枝葉・末節・表層のみに捉われないで、根源本質的なものに重点をおき、百鬼夜行の陰惨な、混濁世界に黎明の陽光が射し込み、全体総てを明るい真昼の状態にします。
悪事の多くは夜に行なわれますが、それは悪事のしやすい状態になってあるからで、如何に取り締っても次々と発生し、猜疑・憎しみ・怒り・争奪・殺傷等が絶えないでしょう。
この昼の世界にはそんな間違い事は起らないから、人を縛る法律等も自然消滅となり、厳めしい警備も牆壁もない、快適な人生があります。
矛盾不透明な社会が幾世紀か続いて、人々は諦めに似た先入感から、間違いを間違いと思わず、途を行くには灯が要るもの、世の中は暗いこんなものと観念しているものか、一向に無関心に過ごし、或いはそれに気付いて改変を唱導し、又は強行したこともありましたが、最上の結論の出ないまま、揉み合う事久しく、今ではかような説明をしましても、目を注ごうとする人は少なく、余程進歩的な人か、飛躍的な若い感覚の人でなければ、直ぐには理解されないでしょう。
金銭物質を、これ人生の凡てと思いこんでいる人達には、閑人の夢物語として邪魔・迷惑に過ぎないでしょうし、その道にある人でも、トテも叶わぬ空言に聞こえるでしょう。
併し私共は、今迄出来なかったから出来ないとか、出来もしない事を出来るが如く見せかけるものでなく、実現し得る設計と、方法と、確信を持って居まして、この間違いの多い夜の世界に終止符を打ち、人類ある限り、永遠に揺ぎない真の幸福のみ溢ぎる、理想郷の門戸を開き、昼の世界を迎えようとするのです。
そこには陽光燦やき、清澄・明朗の大気の裡に、花園が展開して馥郁と香り、美果が甘露を湛えて人を待ち、観るもの聞く声皆楽しく、美しく、飽くるを知らず、和楽協調のうちに、各々が持てる特技を練り、知性は知性を培い育て、高きが上に高きを、良きが上に尚良きを希う、崇高本能の伸びるが儘にまかせ、深奥を探ねて真理を究め、全人類一人残らず、真の人生を満喫謳歌することが出来るのです。
浦島の行った竜宮城か、仏の国の来世極楽浄土が、この世に実現します。政治・経済・社会・家庭等人類のあり方凡てに亘り、現状その儘で陽的に、愉快に、案外容易に、恰も暁に陽光が及ぶが如く照らし出されて、明るい昼の世界が実現します。破壊や、撤去がありませんから、損失や犠牲者や、爆薬も要りません、夜の世界では、なくては働けない松明にも譬えた法律も、変更する迄もなく無用になりますから、そのまま放任しておけば、消えてなくなります。
考えてみましょう。国境が無くなれば、国と国との紛糾がなくなり、戦争も起らず、国際公法や、国境を護る兵隊や、武器が不要で、兵器を造る工場や資材や、工員や、兵隊が、平和産業に当てられます。軍需が無いと不景気になるように錯覚する者があり、失業者の心配や、食糧過剰を云う人がありますが、労働時間を短縮したり、基本産業や治水・交通道路の完備工事もあり、なるべく働かないで衣食住が安定し、戦争の恐怖から免れます。
こんな事今更聞かなく共、決り切った事だが、それがどうにもならないじゃないか。敵が侵して来るから、仕方なくそれ以上の軍備をしなければならぬよ、と頭の悪いことを公開されます。併し方法は手近にあるのですがね、と云い度くなります。
現在の国境は夜の囲いであり、あまりにも厳めしく、やがては唯の地域名程度の昼の画線になり、今の経済機構も、政治及び社会組織も、人の心も皆、明るい昼の姿に変ります。政庁・官職にあるもの、手掛けている学問・芸術・職業も、法律・財産もそのままで、益々伸展合適する自由があり、自動的に少しも波乱なしに、理想社会に生長します。
唯夜の世界で必要とした財産も、名誉も、地位も、昼の世界では身に付けているさえ荷厄介になり、身軽になり度くなります。そうでしょう、終生の衣食住が安定し、老後の心配なく、子孫の養育が確保され、病気が殆どなくなり、病気に罹っても、立派なベッドで最高の治療が無料で受けられ、天寿が近づく程待遇がよくなり、柔軟な寝具に身を浮かせ、甘い音楽に恍惚と夢を見ながら、自然に還る社会に、財産を個々に貯える要はないでしょう。
死んでからの極楽よりも、死の瞬間を、一生を通じての最大の極楽境にします。
人皆身軽い姿でいるのに、名誉と云う重い暑い窮屈な金欄の装束をつけて、地位と云う転びそうな高い木履を穿って、おまけに頭に長と云う冠を載せて、得意顔で勤まるのは、食故の道化役者か、島原の太夫か、大僧正のお練り位なもので、大抵の者は馬鹿げて、正気でやって居れなくなりましょう。
農業にしても、利潤よりも興味本意となり、稲作りも、菊や盆栽作りのように楽しみ乍ら、一粒の種籾から百本の穂を出し、一穂に数百粒の籾を着け、雀の卵程大きな米を稔らす競技会をしたり、春秋のシーズンにトラクターを駆って、ドライブ気分で耕作しておけば、家族揃って夏は海へ山への行楽避暑に、冬は温泉・映画・音楽会や各自の好きな趣味三昧、花を眺め月下に踊る、人生これ快適なりです。
健康のための運動として働き、職場も、芸術的なものだけ人間が造り、他はスイッチ一つで機械が働きますから、特技を高めるもの、学理の究明に没頭するもの、皆その途に専念して、他の煩わしさに捉われることなく、宗教家も、自分にさえも解らぬ伝導やお説教で、自責の苦悩にさいなまれずに、先ず自らの悟りのために瞑想に耽っていても、食は目前に積まれましょうし、住衣に事欠かず、真の導師として天国極楽への先達になれましょう。
そう云う社会になった方がよくはないでしょうか。割合簡単になりますが、いかがでしょうか。実に華やかなお伽の国のような、しかも真実の世界があり、人はもともと罪など犯しているものではなく、懺悔も謝罪もする必要はありません。罪と云う言葉さえもなくなりますから、人を縛る何物も無用になります。
昼の世界には、牆壁が無い方が広濶として見晴らしもよくなり、旅行券や通貨交換の面倒さもなくなり、航行も自由になり、自由をお題目に唱えている国の人々も、嘘から出たまこととなりましょうし、双方が便利になります。
quinta-feira, 5 de novembro de 2009
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