物欲には際限なしと云われますが、併し限界ありとも云えます。
欲するものが、欲しい時に、欲しいだけ、自由に、労せずして得られる仕組みを理想とし、生存に最も必要な空気や、水に近い程度にし度いものです。
しかし、現在ではそうした環境の人は極く小数に限られ、大部分の人々は、
絶えず手足や頭脳を働かしていてさえも、殆ど充たされていないようです。
これに就いては、いろいろの観方があり、標準を一にして論じ得ないものがあります。
肉体の要求と、観念的な相違により、大差がありますから、特定の人に厚く、他の人に得られない機構には、相当不合理性があり、不満感の根源ともなっています。
これ等は、誰でも得られる量と機構を整える事によって解決します。即ち豊富な物資と、自由なる使用の機会を、万人洩れなく行き渡る機構とします。かような世界が実現すれば、幸せに成れると思う人が、現在のところ随分あります。
物が豊富になって幸福になれる人は、誠にめぐまれた人で、既に心が豊かな人であって、物のみ欠けていた人には、実に完全な幸福が訪れた事と云えましょう。
唯私共では物のみで得た一時的満足感を、真の幸福と間違え度くありません。
よく検べて見ますと、物が豊かになって幸せになれる時と、そうでなくて、全く関係の無い場合と、時には不幸の前兆となる事さえあることに気付きます。
そこで考えられることは、物を豊富に生産し、公平な配分・所得共有の社会には、未だ足りない空虚な部分があることを知ります。しかもそれが物の分野とは比較にはならぬ程、幸福条件には大きな部分を占めている事が判るのです。
如何に物資が豊富に自由に得られても、心の世界に真に充ち足りたものが無ければ、絶対に真の幸福はあり得ないのです。又そうした心理的条件を欠いて組織した社会は、真の理想社会ではありません。
物が泉の如く無限に出来て、水のように低い欲しい所へ自然に流れて来る仕掛けにし、心の面でも、安定と満足に暮らせる社会を目指しているのです。
屈辱・忍従・犠牲・奉仕・感謝・報恩等のない社会になりますし、健康・生命・感情の問題等も、昼の世界での考え方、あり方について判然としますが、後章にて詳しく述べるつもりです。
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